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2006年9月19日 (火)

9月9日御巣鷹山慰霊登山レポート

御巣鷹山慰霊登山に参加して

御巣鷹山の登山口に到着し山頂を見上げると濃い霧が立ち込め、山全体に静けさが感じられた。
私の脳裏に高校生であった時の事故を思い出した。昭和60年8月12日 群馬県の御巣鷹山に日航機が墜落をし、520名が亡くなられた大惨事。当時の私としては、すごい衝撃を受けました。
 今回、関ブロ浄青を通じて他教区と交流を図るということで、群馬浄青で行われている御巣鷹山慰霊登山に参加をさせて頂く機会を得えました。元々は、私は群馬県出身でこの大惨事は他人事とは言えず心の片隅に思いを持っており、ぜひとも供養をさせて頂きたいという気持ちで参加をしました。
登山口から屋根まで急な山道を登っていくと、
所々に点在する墓標が見受けられ亡くなられた方々の無念さが伝わってきました。屋根では、お勤めをして、手を合わせさせて頂き、21年前に受けた衝撃的な思いと亡くなられた人の思い、残された方々の思い、今の自分の思いと様々な思いが交差し、この場所で供養を捧げられることが出来、ありがたさを感じました。
今回、この行事に対して詳細な計画・予定を立て受け入れて頂いた群馬浄青に感謝を致します。次の日、節々に痛みを感じていたが、これからも参加をさせて頂きたいと思います。

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コメント

御巣鷹の慰霊の風景

18期関ブロ事務局次長/浄土宗総合研究所研究員 名和清隆

前日の雨のせいでぬかるんだ山道を、一歩一歩ゆっくりと確かめるように歩を進めた。ただ足を滑らせないように、ということではない。すでに慰霊登山を終え、山を降りる遺族たちから掛けられる「ごくろうさま」という言葉の重さを、歩を進めるごとに感じていたのである。
昨年(2005年)のお盆の入りの前日、私は群馬県の御巣鷹山に登った。日航機事故で犠牲となった方々への慰霊登山のためである。日航機事故とは、1985(昭和60)年8月12日18:56分、東京発大阪行きJAL123便が群馬県上野村御巣鷹山に墜落し、乗客509名乗員15名計524名のうち、520名が死亡した事故である。2005年は20年目の節目ということもあり、8月に入る頃にはニュース番組での特集、また有名俳優主演でのドラマが放映されるなど、世間での注目が高まっていた。私もニュース番組の特集を見て、当時に受けた衝撃を思い出した一人であった。

2つの慰霊空間
日航機が墜落した群馬県上野村には、事故犠牲者をまつるための2つの慰霊空間が存在する。一つ目は、「御巣鷹の尾根」と呼ばれる墜落現場一帯である。御巣鷹の尾根は群馬県・埼玉県・長野県の県境に位置する非常に山深い場所である。上野村の市街地から御巣鷹の尾根への登山口までは車30分、登山口から御巣鷹の尾根までは徒歩で45分ほど登らねばならない。ここには「昇魂之碑」と名づけられた慰霊塔のほか、石仏、ほか記念碑が点在する。また、犠牲者の遺体発見現場に、遺族が墓標(銘標)を立てている。遺族ほか関係者は、御巣鷹の尾根に慰霊登山を行なっている。もとは国有林であったが、上野村に払い下げられ、維持管理がなされている。
二つ目は「慰霊の園」である。1986(昭和61)年、村民有志が上野村の市街地のなかの3000坪の土地を供出し、そのうち1500坪を平地にして建設した。520名の犠牲者の霊を祀り、かつ慰めるための諸施設を設置するとともに、慰霊の園を交通安全祈願の場として広く一般に開放している。園内には慰霊の塔、納骨堂、展示棟、管理棟などがある。慰霊の塔と納骨堂は1986(昭和61)年8月3日、慰霊の園内に完工した。慰霊の塔の高さは11m、合掌する手をイメージして作られている。その背後に納骨堂があり、身元不明の部分遺骨が納められている(死者520人中518人が何らかの形で身元が確認された)。慰霊の塔の真ん中に立って、納骨堂を見通すと、まっすぐ先(約8km)が事故現場になるように設計されている。塔周辺には、犠牲者全員の名を刻んだ名碑がある。慰霊の園は、財団法人慰霊の園が管理を行なっており、8月12日に挙行される追悼慰霊祭の会場ともなっている。

遺族にとっての2つの慰霊空間の意味
 これら2つの慰霊空間に対して、遺族は異なる意味合いを見出しているようである。それぞれにどのような意味を見出しているのか、とくに事故発生からさほどの時間が経過していない状況(事故発生から1年以内)でどのような存在として捉えていたのか、「8,12連絡会」という遺族会が発行した機関誌『おすたか』を中心資料として、遺族・関係者の声から捉えてみよう。

1、遺族にとっての「御巣鷹の尾根」
 現在、御巣鷹山の尾根に登り、すぐに目に飛び込んでくるのは、山の斜面に点在する標である。これは遺体が発見された場所に、それぞれの遺族が建てたもので、「墓標」と呼ばれている。事故から程なくして遺族が誰ともなく建て始めたもので、表面には生前の名前、戒名が書かれている。そこに塔婆を上げている人も少なくない。事故発生から2週間の間、懸命の遺体収容活動が続けられ、遺体・遺骨のほとんどは収容された。つまり、遺体が発見された場所は、必ずしも遺骨があるわけではないにも関わらず、「墓」として位置づけているのである。そして、「早朝恨みの尾根に又登りました。あの娘の血と無念さのしみこんだ地に立つとき、私の心は安らぎます。あの娘にうんと近づけた様な気がして語りかけられます。」 と、遺族は御巣鷹の尾根の「墓」に向かって語りかけるのである。
事故から1周忌にあたる1986(昭和61)年からは、8月12日の墜落時刻にあわせて慰霊登山が行われるようになった。そこでは、「1周忌を迎えた12日、墜落現場の御巣鷹の尾根に40遺族、173人が慰霊登山をした。・・日はすでに沈み、御巣鷹の尾根に濃い霧が立ち込める中、時刻は運命の『午後6時56分』・・・長男、秀人さん(当時26歳)を失った東京都国分寺市、主婦、長井照さん(53)は、昇魂之碑への祈りを終えると、空に向かって何度も息子の名前を叫んだ。」 と見られるように、被害者の遺族が亡き家族に対して語りかけを行うのである。なお、翌年からは、墜落時刻に御巣鷹の尾根の昇魂之碑の前で黙祷を捧げたのち、ペンライトを空に向かって掲げる行為が定着した。これらに見られるように、御巣鷹の尾根は、建てられている「墓」を含めて、尾根全体が亡くなった家族、つまり個性をもつ死者と交流をはかる場なのである。
 亡くなった家族との交流をはかる場であるが故に、他人には踏み込んでほしくない、「私的空間」という意味合いがあったようだ。上野村の村長であり、財団法人慰霊の園の理事長でもある黒澤丈夫は、「遺族の方々は交々、『我々の身内の亡くなったあの御巣鷹の尾根を観光地にされたんでは悲しいから、村長によく言ってくれ』と、『あそこに自動車を上げて、笑いながら我々の身内が亡くなった所をね、眺める様な事をしないでくれ、と言ってくれ』と何度も何度も言われました。」 と当時の日航社長が語ったエピソードを明かしている。
このように、遺族にとっての御巣鷹の尾根は、遺骨はないものの「墓」と表現される個性を持つ死者(肉親)との交流の場であり、関係者以外の立ち入りを好まない「私的空間」としての意味を持っていたのである。

2,遺族にとっての「慰霊の園」
 それでは、「慰霊の園」は遺族にとってどのような存在であったのであろうか。事故から1年後に慰霊の園に行った、ある遺族の言葉を見てみよう。「慰霊の園は見物人の車が何人もおしかけ、お線香をあげるわけでもなく、手を合わせる人も少なく、ただ、私たちを物めずらしげに写真をとったり、どなたが亡くなったのですか、ずいぶんの人が死んだんだなあなどと言いながら記念撮影をしながら、そそくさ車に乗り込んで帰っていきました。さみしく腹立たしく思いました。私たちは・・いろいろ好きだったものを供えて、一人一人の名前にビールをかけて、残された家族の健康と生きる強さを祈りながら、・・・」 と語っている。たしかに遺族にとっては、亡くなった家族と交流をはかる場所でもある。しかし、ここは家族以外の部外者が容易に立ち入ることのできる場所であり、彼らにとっては特定の個人の霊ではなく、集合体としての霊をまつる場所なのである。このことから、遺族にとっては、慰霊の園がいわば「私」と「公」の入り混じる空間であることがわかる。
 また、慰霊の園は慰霊祭を執行する場所でもある。慰霊祭において語られる言説は、関係する人々のもつ価値を表出するものであり、また語られることにより、価値を再定義する意味を果たす。財団法人慰霊の園理事長である黒沢丈夫は、1周年の追悼慰霊行事での式辞のなかで、「上野村の天地は、・・・参拝に便利なここ中越、村山の丘を諸霊の墓所と定め、納骨堂、慰霊碑を中心とする霊園を建設してまいりました。それは、我等が子々孫々まで、諸霊を祭り慰めて、供養を忘れること無き為であり、且は大事故の戒めを末代に伝えて、万民とともに空の安全を希求せんとするが故であります。」 と、慰霊の園の存在を慰霊(供養)の場、事故を語り継ぐ場、空の安全を願う場として位置づけた。
同じ1周年追悼慰霊行事で、遺族代表は「今、私達遺族は互いに手を取り合い、声をかけあい、同じ悲しみを持つ者同士で、わずかな力を補い合って、あなた達の志や、希望を守って行こうと励ましあっております。互いに手を取り合った輪の中にこそ、あなた達の御霊は安らぎを得、私達の心は慰められるのです。」 と語った。また、他の遺族は「私達遺族は今こそ声を大にして「ノーモア御巣鷹」を叫び、航空機の安全のため、世に訴えかけることにより、事故を風化させないよう努力しなければなりません。これこそ私達遺族の権利であると同時に、責務であり、亡くなった520人の霊に対する供養と考えるべきです。」 と『おすたか』に投稿している。これはつまり、慰霊の園の存在を慰霊(供養)の場、事故を語り継ぐ場、空の安全を願う場として位置づけただけでなく、「事故を語り継ぐ」、「空の安全を願う」という行為を、死者への供養の一つと捉えたのである。

 事故からの20年間、遺族会を中心として「事故を語り継ぎ」、「空の安全を願う」ための様々な活動が繰りひろげられてきた。また、「御巣鷹の尾根」も遺族だけでなく、多くの一般人が登れるように整備が進んでいる。20年間という歳月の間に、遺族にとって「御巣鷹の尾根」「慰霊の園」の持つ意味合いも少しずつ変わってきていることだろう。しかし、「御巣鷹の尾根」「慰霊の園」のもつ聖性は、現在でも決して失われてはいない。
慰霊登山の際に、遺族の方々から掛けられた「ごくろうさま」という言葉。この言葉は、私に対してのみ向けられたのではない。死者(犠牲者)と生者(遺族)の間にあり、双方を結びつける様々な要素に対しての感謝の念が込められた言葉なのではないかと感じた。

御巣鷹慰霊登山

群馬県浄土宗青年会事務局長 新井直人

平成十八年九月九日、群馬浄青主催の「御巣鷹山慰霊登山」が行われました。今年度は関ブロ浄青の交流活動の第二弾として、埼玉教区や神奈川教区からもご参加いただき、総勢十七名での登山となりました。
 生憎の曇り空ではありましたが、心配された雨に降られることもなく、予定通り登山を開始いたしました。今年から「新登山口」が開設され、墜落現場の尾根までの距離は昨年までの三分の一程度になったのですが、それでも途中で誰もが感じる「ある種の辛さ」は、単に斜面が急だからというだけではなく、今なお残る焼け焦げた木や、数多くの墓標を目の当たりにするからなのかもしれません。
墜落現場の尾根にある「昇魂之碑」の前で群馬浄青の茂木参与より事故当時のお話をお聞きし、参加者全員がさらに心をひとつにして慰霊法要をお勤めいたしました。その後、尾根にある様々な慰霊塔やご遺族が残していった思い出の品々を拝見し、この事故が発生してから二十一年経った現在でも、決して癒えることのないご遺族の悲しみを痛切に感じました。
下山後は場所をふもとの上野村にある「慰霊の園」に移して慰霊法要をお勤めいたしました。また、併設されている資料館を見学し、今回の全日程が無事に終了いたしました。
末筆になりましたが、今回お忙しい中ご参加下さった、石垣理事長をはじめ関ブロ浄青の皆様、埼玉浄青の皆様、また、遠くからご参加下さった神奈川浄青の皆様に、ご参加いただいたこと、また、無事に全日程を終了できましたことをこの場をお借りして篤く御礼申し上げます。
合掌

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